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自己紹介

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自己紹介  

広島県行政書士会所属
登録番号第07340921号
       行政書士 村上 陽一

1948年、私は、広島県尾道市因島重井町という瀬戸内の田舎で、4人兄弟の次男として生まれました。
1966年、地元の工業高校を卒業すると知能犯刑事を志し、広島県警察官を拝命しました。

そして、最初の赴任地は備後家具の生産地として有名な府中警察署でした。


駆け出し刑事  

1969年、広島県警察本部刑事部捜査第二課知能犯係に配属となり、知能犯刑事としての第一歩を踏み出しました。

捜査第二課の主な守備範囲は、詐欺、横領、背任、有印文書偽造、告訴・告発事件、公職選挙法違反、贈収賂(汚職)事件の捜査です。

右も左も判りませんでしたが、優秀な先輩刑事や上司に恵まれ
 ・汚職が蔓延れば国が滅びる
 ・罪を憎んで人は恨ます
等と犯罪捜査の基礎を徹底的に継承させていただきました。


先輩刑事との出会い  

私が今も尊敬する先輩刑事は、既に20年前の現職中に亡くなりましたが、私の知る限りでは、この先輩刑事の取り調べを受けた全ての収賄被疑者は不思議にも逮捕事実を全面的に認め、その後の公判でも自分に不利益な内容にもかかわらず判決を受け入れるのです。

そして、この先輩刑事は、執行猶予となった被疑者の就職の面倒まで見ていました。

被疑者といっても、逮捕される前は官公庁の課長・部長・局長クラスですが、逮捕と同時にマスコミ各社は先を競って大きく報道し、起訴されれば懲戒処分されてその要職を失ない、家庭は崩壊し、人生の全てを失います。

たとえ起訴猶予となっても、再就職することが如何に大変かということは、誰もが想像されるとおりです。
だから、汚職事件の収賄被疑者は、逮捕されても無罪を主張し、徹底して犯罪事実を否認するのです。


不思議で貴重な経験  

直接証拠の乏しい贈収賂事件の被疑者は、逮捕・取調べの段階では自供していても、必ずと言って良いほど被告となった公判の段階では一転して否認に転じます。

それは、これまでにも逮捕されマスコミに大きく報道されている数多くの政治家の事例を見てもお判りのとおりです。

しかし、私の尊敬するこの先輩刑事が取り調べた被疑者は、不思議にも全て自供し、公判でも自分に不利益な内容の判決を受け入れるのです。

それは何故かというと、逮捕と同時に捜索して押収した膨大な証拠資料の緻密な分析は勿論ですが、取調べの過程で自然と生まれる取調べ官と被疑者の信頼関係にあったのです。

この種事件の被疑者から自供を得るには誘導尋問か脱税の見逃し等の交換条件による取引しか無いのではと想像していた私が、他の同僚刑事より少し早く知能犯捜査にのめり込むようになったのは、こうした優秀な先輩刑事の取調べに立会う機会に恵まれたからです。

「罪を憎んで人を恨まず」という古き諺を、そのまま実践していた先輩刑事の後姿に影響を受けたのです。


真剣勝負  

その後も、「正直者が馬鹿をみない社会の実現」を目指し、日夜、捜査に明け暮れる毎日が続きました。

特に公職選挙法違反や贈収賂事件は、ひとたび事件に着手すると最低でも2ヶ月間は休み無しで、帰宅時間は毎晩午後11時を回る超長時間勤務でした。

それは被疑者との真剣勝負だからです。

被疑者が要職にあるだけに捜査の失敗は許されず、着手した事件が証拠不十分で不起訴にでもなれば、捜査関係者にとってはそれは大きな問題です。

逮捕・勾留して取り調べた結果が無実(冤罪)であれば、被疑者に対してこれ以上の名誉侵害は無く、取り返しのつかない事態を招くからです。

1983年暮れには、広島県A地区市役所の「市庁舎新築工事」を巡る汚職事件に着手し、私達、捜査第二課の特捜部員は広島から現地に乗り込み、現職の助役を逮捕し、出張先の警察署独身寮で年を越したことを今も鮮明に記憶しています。

私は、尊敬する先輩刑事の推薦もあり、この助役の取り調べを任され、逮捕して勾留の課程では業者からの収賄事実を自供し全面的に認めていたのですが、残念ながらその後の裁判では「調べ官から無理な取調べを受けた」等と否認に転じたのです。

私の無理な取調べを受けたから、やむなく事実に反する供述をしたというのです。

当時、私は東京の中野にあった警察大学に入校中でしたが、裁判所から証人出廷の要請を受けて広島に呼び戻され、公判廷では被告側弁護士3名から執拗な尋問を受けたのです。

それでも私に対する裁判官の心証が良かったと言って、支部長検事が大変喜ばれたのを今も鮮明に記憶しています。

被告側弁護士の1人は、「まだまだ、本日の証人喚問はセレモニーに過ぎない」等と強気の姿勢を示していましたが、この助役は実刑に服しました。
私たちの捜査力が勝ったのです。


刑事のプライド  

当時の長時間労働を、現在の労働基準法に照らせば問題となるでしょう。

しかし、当時は社会全体が長時間労働に対する意識は低く、それ以前にほとんどの刑事は、市民・県民のためという共通の目標に向っており、マスコミに大きく報道される大規模事件であればあるほど、その主犯格被疑者の取調べを任されたり捜査指揮をすることに刑事としてのプライドと喜びを感じていたのではないかと思います。

警察人生の中で、この頃が最も充実した時期であったと思います。

一方、私には4人の子供がおり、その内の次男は本年3月で満27歳になりましたが自閉症とうい障害を持っており、そのため家族には迷惑のかけっぱなしでした。

また、刑事という仕事は、事件現場を見ておかないと、その後の捜査指揮に自信が持てないため、思った以上にハードな仕事でした。

私自身、それまでの疲労の蓄積からか尿蛋白と潜血が降りるようになり、紫斑病の疑いで赴任先の農協病院に2ヶ月間入院し、不安な日を過ごしましたが、幸い紫斑病ではありませんでした。


ローカル企業への転職  

1991年、広島県警察を退職した私は、中国セルラー電話(株)という地元企業が共同出資して1990年に設立した携帯電話会社に転職しました。

この会社は、当時の携帯電話市場を独占していたNTTドコモに対抗して設立された会社でした。
中国セルラー電話(株)の中国5県での当時の携帯電話累計契約数は、2万8000台弱でした。

当時の携帯電話は、中小企業の社長かあちらの世界の組長と呼ばれるクラスの方しか持てない高価な商品だったのです。

レンタル料金だけでも確か10万円位していたと思います。
そして、時々、基地局ダウンという障害を発生し、その基地局周辺は通話不能状態になるのです。

そんな時に限って「うちの親分の携帯電話が故障した。大事な商談がパーになった。」等と、あちらの世界の方から暗に金品を要求するクレームが入り、社員はその対応に苦労していたのです。

私は営業企画という仕事をしながら、そちらのサポートも兼ねていたのです。

今でこそ組員による脅迫事案は影を潜めましたが、暴対法が施行される前までは、結構あったのです。

中国セルラー電話(株)に転職した1991年からKDDIを定年退職した2008年3月までの17年間、広島県警察本部刑事部捜査第四課が事務局として運営する「広島市公共料金等暴力対策協議会」の幹事として参画させて頂きました。


地域貢献活動  

2000年に、それまでのローカル企業であった中国セルラーは、第二電電(株)、KDD(株)、日本移動通信(株)の3社合併により、KDDI(株)という総合通信事業会社に変貌しました。

私が入社時は僅か2万8000台であった携帯電話の累計契約台数は、その後、飛躍的に拡大し、中国地区だけでも今では150万台に達しました。

KDDIという社名は、KDD(国際電話)とDDI(第二電電)を合体させたものです。
携帯電話のブランド名も、セルラーからAU(エーユー)に変わりました。

KDDI(株)中国総支社管理部に在職中は、地域貢献活動として団体献血やボランティア活動(大田川・芦田川清掃等)・救急救命講習への参加社員の拡大に努めて参りました。

そして、2008年3月末にKDDIを定年退職し、村上法務事務所を開業しました。

中央が私
写真の中央が私で、両サイドの2人は小中学校の同窓生です。
2008年の春、還暦祝いで集まり撮影して頂きました。


略歴  

1990年 3月 広島県呉警察署刑事第一課長
1991年 4月 中国セルラー電話(株)営業企画課長
1998年 8月 中国セルラー電話(株)営業企画部長
2000年10月 第二電電(株)、KDD(株)の合併によりKDDI(株)発足
2003年 4月 KDDI(株)au九州カスタマサービスセンター長
2005年 3月 KDDI(株)中国総支社管理部長
2008年 8月 村上法務事務所を開業



夕焼け雲


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